石見焼のすり鉢
■陶器の起源
1592年から1610年にわたる文禄・慶長の役に、この地方から出兵した武士が帰朝の際、朝鮮の陶工(李郎子)を連れ帰り現在の浜田市や鹿足郡柿木村にて焼物をつくらせてのが始まりといわれ、本格的に陶器が作られるようになったのは、1765年の宝暦年間に現在の江津市において製陶法が学び伝えられています。現在の石見焼に見られる「片口」や「徳利」などの小物の技術は、周防の国の岩国藩から入江六郎という陶工を招いて受け継がれています。
「水かめ」のような大物陶器作りの技法は、1780年代の天明年間に水かめ写真備前の国の陶工が江津に来て伝授したとされています。 江戸時代の末期には、浜田藩家老が陶器産業を殖産事業として奨励し、窯造りが相次ぎ、窯数も増え、江津地域は水かめの生産の一大拠点であったことが記されている。 庄屋宛てに焼物屋が増加し、薪が高値となったため、窯場の新規参入と現職の場所替えを許可しないようにと、嘆願書を提出した古文書が残っている。
この時代に北廻船の回航ルートが開かれたことにより、物資の流通が盛んになり廻船帖の記録によれば、北廻船による焼物の出荷件数が大幅に伸びていることからも、石見地方の窯元が増産していたことが伺えます。「セロリズッペン」
■石見焼きの水がめ
明治に入ると石見焼の水かめは、台所を中心として水を確保する容器として各家庭の必需品となり、防水性・耐寒性・耐酸性の特質が評価され、さらにその用途は広がり「石見焼」特有の「しの作り」による「大かめ」も、日本海側を中心として、北海道から九州まで販路は広がり、明治後期には第2期の最盛期を迎えています。
1904年(明治36年)には、現在の石見陶器工業協同組合の前身である石見焼陶器製造業組合が発足するなど、その発展は目覚しいものであったようです。
昭和の初期は引続き、水がめ、すり鉢、こね鉢などの需要は更に伸びましたが、第2次大戦の混乱期には生産が一時衰退し、昭和30年代に開発されたプラスチックなど合成樹脂容器や、上水道の普及に伴い石見地方の各窯元は大きな打撃を受けましたが、手作りによる日用品としての「石見焼」が見直され、民芸陶器へと移行して現在に至る。